「自分でやった方が早い病」の治し方 (川上の場合 その2)

88株式会社 川上です。私は、2021年1月から新潟に単身赴任しました。
その前はと言うと、2017 年から2020 年まで私は、東京で日本語が流暢に話せる外国人材の人材紹介をしていました。外国人労働者数も増えていく中でしたが、当社は単純労働者ではなく、大学を卒業していて学歴が高く、高度人材といわれる外国人材を中心に人材紹介をしていました。事業成長としては、ちょっとだけ時代を先取りしすぎていたようで、当時はまだ、「日本語話せるっていうけど、文化の違いとか大丈夫?」とか「同じ雇用なら日本人が良いな」みたいな反応も多く、事業的には、良くないけれど、悪くもない、みたいな感じでした。そして2020 年になったころ、2020年といえばコロナウイルス大流行のときです。外国人材も来日できず、まったく仕事がなくなりヒマを持て余してしまいました。

ちょうどその時、ご縁があって、私は新潟に単身赴任することになりました。2021 年1 月1 日の朝、私の他には文字とおり誰も乗っていない上越新幹線に乗って、新潟(長岡)に行きました。その日、長岡駅についたら大雪だったので、「とんでもないところに来てしまった」と思ったことを今でも覚えています。でも、本当にとんでもないことは大雪ではなかったのです。

入社してすぐ、社内でハラスメント事件が発覚しその対応に追われ、ある日突然、テレビや報道のカメラに囲まれる記者会見に出席することになるなど、私には未体験の大きな出来事が起きました。県内メディアに囲まれて、記者からの質問に回答している私の姿が夕方のニュースで放映されたり、挙げ句、ネットニュースには県民からの批判コメントが満載になりました。会社の電話は抗議の電話や、無言電話がじゃんじゃんかかってきました。批判の声が集まる世論とは本当に津波のようで暴力的で怖いものです。。。これも私にとっては良い経験でした。
そうした中、私は懸命に事後処理をこなしていました。とても大変な状況でしたが、性格的にドMな私はむしろ『さあ次!』みたいな感じで問題解決にあたっていました。危機対応は私の得意分野のひとつでもあります。

そして、その事後処理が一段落しつつあるころ、私自身が代表取締役社長に就任することになりました。代表取締役社長になってみて、改めて社内を見渡してみると、社内にはマネジメントがうまく機能していなく、情報伝達というか社内共有もあまり良くなく、結果として、『考えないで、言われたことだけをやる』という雰囲気な会社になっていることに気がつきました。たった20 数名の会社で、まあまあ離職率も高く、その欠員補充で未経験者の採用が多かったこともあって、できる人に仕事が集中している一方で、できる人も未経験のメンバーを指揮、指導、教育するようなこともなかったので、なんとも言えない不揃いな会社になっていました。
未経験者も、いきなり作業だけ振られるので、周囲と関わりなく、自分の範囲だけで仕事をするそんな会社なので、中間管理職などいるわけもなく、なんとなく部門の責任者的な役割の人はいましたが、マネジメントが遂行されているような組織ではありませんでした。必然的に、私のこの会社での社長としてスタートも、中間管理職不在の、社長と部下全員というオールフラットな文鎮型な組織運営になりました。中間管理職を育てようにも、その候補人材すら見当たらないという状況でもありました。

一方で、階層型ではなく文鎮型組織で良かったことは、私はワンマンでもないので、誰でも私に、何でも相談や報告をしてくれました。今考えれば、これが自分で考えない社風を更に色濃くしてしまうポイントだったようにも反省しています。しかしその時は、社員がなんでも相談、報告してくるので、短期間で会社の状況は把握することに努めていました。相談されればされるほど、相談されたことに対応する業務範囲が広すぎて、問題は知るけれど、その原因を根本から改善するということはできない日々を送っていました。まさに、問題が起きたら対処するモグラたたき状態です。モグラもたまに出現なら良いのですが、毎日、毎日、複数のモグラ(トラブル)が出てくような日々でした。

そもそも、社員は業務経験も少なく、会社全体では自分で考えない社風になってしまっていたので、問題が起きても、『問題が起きました』という報告はしてくれますが、『こう解決します』とか『こう解決しました』ということはありませんでした。社長が解決してくれるもんだくらいに思われていました。また悪いこと、入社時からほぼ一人で大事件を解決していた私だったので、日々起こる問題も、どんどん私が身を乗り出して解決してしまっていました。もちろん社員にはトラブルから学んで欲しいという思いもありつつ、毎日、沢山のトラブルが起こるので、本人に対応させて横からサポートするなどの余裕もなく、また、トラブル処理の未経験者に、トラブル処理を任せて更に炎上してしまうことを避けたかったということもありました。そんなことしたら、もっと忙しくなるから・・・です。

そんな日々の中、それでも責任の所在を明確化するべく、組織を整え、組織図を作り、部門の責任者を任命し、その上で、給与テーブルも見直し、勤怠管理も導入し、評価制度もつくり、なんとか形だけは、会社っぽく整えていきました。前述の通り、社員の中には、この会社での経験も多く勘所というか、やるべきことがわかっている人材も数名いました。私も、そうした経験のある人材に、知らず知らずのうちに頼っていました。

しかし、ある日、こうした経験豊富な人材が、他の社員に共有もなく、またある意味、現場の立場も気持ちも関係なく、なんでもやってしまうので、それに対して社内には不満の声があるとことを知りました。つまり、この仕事ができる優秀な人材は、なんでも一人でできる一方で、社内に情報共有をするという習慣がなかったのです。こうした人材の行動は、現場のスタッフから「どうせあとから指示だけ来るから」という雰囲気を強くすることにもなってしまっていました。いわゆる、エースの仕事が完全に属人化してしまい、周囲はそれについていけないという状態になっていました。

今回のコラムはここまでにしておきます。
ここまでお読みいただき、その時の私の眼の前には、指示待ちの雰囲気が溢れていて、エースの仕事は完全に属人化している。そんな環境でした。
そうした状況から、何をどうやって会社を変えていこうとしたのか?また何が変わったのか?
次回以降、またこのコラムに記載していこうと思います。